夏至 第三十一候 半夏生(はんげしょうず)

夏至から数えて11日目を半夏生といい、かつては、農作業の大事な節目で、田植えもこの日までに終わらせていたようです。そういえばいつの間にか、水を張った田んぼのなかで、苗が美しく育ってきています。

さて、学会理事の植村恒一郎先生から、珠玉のエッセイを頂きましたのでご披露致します。

 

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デジタルネイチャーが我々の生きる時・空を変える

植村恒一郎 (日本時間学会理事、哲学)

 

アリストテレスによれば、この世界に実在するのは運動と変化であり、時間や空間は、そこから抽象された関係性に過ぎない。まず時間や空間があり、その中に運動や変化が存在するわけではないのだ。私という存在も、まずは身体の運動や変化として存在するだろう。たとえば私は、コロナ禍のために、演劇やオペラの上演がすべて中止になってしまい、大学の授業もZoomなので、何か月もほとんど自宅にいる。つまり、移動がなくなり、人と会うことが減ってしまった。このことは、他者との距離感と、過ぎていく時間の感覚とをいくらか変えたように思う。その中心にあるのは、他者と「繋がる」感じだが、それがどう変わったのか、今一つ分らない。そんなとき、落合陽一『働き方5.0』(小学館新書、6月8日刊)を読んだ。32才の若者がこんな凄い本を書くとは、と驚いたのだが、本書は、コンピューターとインターネットが我々の社会と一人一人の生き方をどう変えるか、について論じている。内容は哲学的で、幸福に生きるとはどういうことかという観点から、人間とシステムの関係を考察している点が優れている。本書は、ほぼ次のような内容である。

 

著者は、コンピュータやインターネットはもはや道具ではなく、我々の身体の一部になったという。ヒトは、植物や動物を食べて生きている生物であり、どこまでも自然の一部である。それに対して、「道具」は、人工物であり、それ自身は生命を持っていない非-自然である。これが、従来の普通の自然観である。しかし、コンピュータは人工知能として人間の脳よりも優れた活動を行うようになり、ネットは、たとえばツイッターが、声を出して「つぶやく」代りになり、メールが手書きの手紙の代りになり、インスタグラムは自分の目に見える光景=映像を瞬時に他者と共有させる。つまり、コンピュータを含むインターネットは、第二の脳、第二の声、第二の手、第二の眼として、我々の身体能力の拡張であり、身体の一部になった。これがデジタルネイチャー(=デジタルを含む第二の自然)である。デジタルネイチャーの成立は、我々の生き方そのものを大きく変える。大学には直接行かなくても、遠隔授業が代替し、会社の仕事の一部はテレワークで処理できる。医者の診断もAIの方が正確であり、囲碁も将棋も人間よりもAIの方が強い。人と人を繋ぐコミュニケーションはメディア(=媒介)と言われるが、かつては、本、新聞、電話、ラジオ、TV、CD、DVDと、内容をそこに載せて相手に届ける「プラットフォーム」がすべて別々だった。だが今は、スマホというたった一つのプラットフォームですべてのコンテンツが相手に届く。本、新聞、電話、ラジオ、TV、CD、DVDといった「道具」は、今後は不要になる。著者は人と人を繋ぐ媒介物とその働きを「システム」と呼ぶ。そして、今は生身の人間が行っているシステムはすべてコンピュータとインターネットによって代替されるだろうという。なぜならその方がコストパフォーマンスがよいからだ。具体的には、ホワイトカラーと呼ばれている人々の仕事はなくなる。では、これは困ったことなのか? いや、そうではない、と著者は言う。人間にしかできないことを人間がやればよいのだ。それは、一部の肉体労働、そしてシステムでは代替できない知識労働である。それは、システムを機能させるためのモティベーションを与えることである。システムとは、人間に幸福をもたらすために存在する。そして、我々が人生で何が幸福であるかは、一人一人みな違う。とすれば、システムを動かすためのさまざまなモティベーションも、人間の数だけ多くあるはずだ。そのモティベーションを発見すること、つまり何をすることが自分にとって幸せなのかを、一人一人が見極めること。これができるのが、これからの知的エリートであり、それはつまり「オタク」ということだ。

 

以上から私がいちばん衝撃を受けたのは、デジタルネイチャーという考え方である。コンピュータもインターネットも、私は「道具」だと思っていた。道具とは、身体の外部にあるが、身体の能力を拡張するものであり、その意味では身体の延長である。だが、AIが人間の脳以上に思考できるとすれば、それは身体の外部にある道具というよりも、脳の機能そのものの拡張、つまり身体の内部にある脳が拡張すると見なすべきだ。口でつぶやくよりもツイッターで「つぶやく」方が、より多くの人に自分のつぶやきが聞こえる。目で見える光景=映像は、通常は自分一人のものだが、インスタグラムによって瞬時に、他人の目の位置に自分の目が重なり、視点が切り替わる。つまり口も目も、自分の身体が置かれた時空的制限を超えることによって、その機能が拡張する。このようにしてインターネットは身体の一部になった。こうしたことが可能になるのは、たとえば●○●●●○●○●●○というデジタルは、物質の性質であると同時に情報でもあるからだ。そもそも人間の神経細胞の情報伝達は、インパルスを出す/出さないという二値性からなり、デジタルなコンピュータと親和的である。デジタル物質であると同時に情報でもあるコンピュータやインターネットが身体の一部だとすると、我々は、これまでの生物/無生物からなる「自然」という概念を改めなければならない。

 

人工知能におけるディープラーニングは、人間とは比較にならないくらい大規模な帰納を行っている。囲碁や将棋の名人戦クラスの高レベルの何百万回もの対戦が、わずか数時間のシミュレーションで、その棋譜が出来てしまう。とすれば、ある局面で、勝ちに結びつく確率の最も高い「最善手」が、人間よりずっと確かに可能になるわけだから、人間より強いわけだ。人間にはできない膨大な数の「経験」をコンピュータはすることができるから、それは、人間の身体が置かれている時空的制限を大幅に超越することを意味している。このように、脳の一部となったコンピュータ、口や目や耳の一部となったインターネットによって、我々のデジタルネイチャーとしての身体は、時空の在り方を変えてしまう。

 

身体が運動し変化することは、普通の言葉に直せば「生きる」「生活する」ということである。つまり、デジタルネイチャーとなった身体は、もははそれまでと違った「生き方」をすることになるだろう。考察をここまで進めたときに初めて、人間の「行為」「道具」「(社会)システム」などの意味を問い返す必要が生じる。そもそも、「行為」とは何らかの「よさ」をもたらすための身体の動作である。たとえば「食べる」という基本的行為は、空腹という苦痛を解消し、「ああ、おいしかった」「満足だ」などの「快」という「よさ」をもたらす。その「行為」をより効果的に遂行するための補助装置が、道具、そしてさまざまな社会システムである。とすれば結局、我々が「生きる」ことの核にあるのは、何らかの「よさ」をもたらす行為を行うことである。では、この「よさ」とは結局何なのだろうか? それはアリストテレスも言うように「幸福」であろう。つまり、人間が生きることは、「幸福」を得られるように行為するということである。そしてそれは、行為そのものが喜びであることによって、もっとも容易に達成できる。

 

落合陽一は、これからの知的労働は「アート」になり、東大や京大を卒業するような偏差値秀才は、もはや知的エリートたりえないと言う。そして、これからの知的エリートは、行為そのものが喜びであるような人間、つまり「オタク」でなければならない、と。これは唐突なように見えるけれど、「生きる」ことの本質に対する正しい洞察にもとづく結論であるように思われる。

 

植村恒一郎

【うえむらつねいちろう】

哲学研究者、群馬県立女子大学名誉教授。
1951年東京生まれ。1975年東京大学教養学部科学史科学哲学分科卒業、81年同大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程満期退学、1984年群馬県立女子大学専任講師、助教授、99年教授。2016年定年退任、名誉教授。2003年『時間の本性』で和辻哲郎文化賞受賞。専攻は西洋近代哲学、中でも認識論、時間論。2008年より、日本時間学会設立メンバー・理事。